東京マラソン2009完走記(その13) の続きです。
-42.195kmのその先にあったもの-
東京マラソンのゴール直後の感想は、「やれやれ、やっと終わった」というものであり、期待していた感動や涙、「自分で自分をほめてあげたい」的な強い感情はありませんでした。
東京マラソンから1ヶ月は、1年間に蓄積した筋肉疲労を抜くために、全く走らずに、エクササイズや水泳といった運動を少々する程度にしていました。3週間目から週4回のウォーキングを始めました。5週間目、東京マラソンからちょうど30日目にまた走り始めました。今シーズン、2009年度の初ランニングです。朝5時に起きてストレッチをして、5時20分に家を出ました。天気予報では弱い雨の予報でしたが、曇り空で幸い雨は降っていませんでした。10分間ウォーキングをして10分間走って10分間ウォーキングという合計30分間のメニューを行いました。いつもの練習コースは八重桜が散ってピンクの絨毯になっていて、ツツジが満開で、春本番でした。1ヵ月ぶりに走ったわけですが、その日は一日中体が軽く、気分も軽やかで快適に過ごせました。その翌日に東京マラソンの記録証が届きました。その日に考えたことをこれから書いていきます。
この21世紀の極東の島国に突如として始まったマラソンブーム。ジョギングブームではなく、マラソンブームであるところが、今までとは異なっている点です。走らない人から見れば、「なぜ走るの?」という疑問が常にわいてきます。21世紀というこの時代に、42Kmという車に乗れば1時間の距離を、どうして4時間も5時間もかけて走るのか?意味が分かりません。国会議員、県知事、元総理大臣の奥様、105Kgのお笑いタレント、グラビアアイドルなど老若男女が42.195Kmを走る、走る、走る。ところで「なぜ走るの?」
1年前から私が走り始めた理由の一つは、「人はなぜ走るか?」ということに興味があったからです。「走ること自体が爽快・気持ちいい」「気分転換ができる」「体重が減る」「健康の維持」「体力の増進」「ストレス解消」「レースに出ることが楽しい」「タイムが良くなっていくのが楽しい」「一人になれる時間がつくれる」「一緒に走る仲間ができる」などが走る理由としてあげられています。これらのうちの一つまたは複数の理由から人は走ると言われていますが、本当にそうなのでしょうか?確かにそれぞれ走るモチベーションが上がるような理由ばかりですが、これだけの理由で毎日あるいは一日おきに人は走り続けることができるのでしょうか? 4時間も5時間も走り続けることができるのでしょうか? 逆に考えると、どうしてこのようなすばらしい効果があるのに多くの人は走らないのでしょうか?「時間がない」「疲れる」「苦しそう」「大変そう」「無理、無理、無理」というのが走らない理由だと思いますが、このような高いハードルを越えて、なぜ人は走るのでしょうか?
1年間走ってみました。42.195Kmも走ってみました。「人はなぜ走るか?」その理由が少し分かってきました。私にとって、その理由は感覚的なものであり、言葉にしたり、頭で理解できることではありませんでした。言葉で表現することは難しいのですが、あえて言葉にすると「はるか遠い日の感覚や気持ちがよみがえる」ということです。どこまで遠いかというと、何千年も前までさかのぼります。農耕生活をしていた、さらにその前です。
縄文時代、石器時代に獣を追って野山を駆け抜けていた、その頃の感覚や気持ちが遺伝子に残っていて、それが呼び起こされます。近いところでは、30数年前に意味もなく駆け回っていた子供の頃の感覚や気持ちが呼び起こされるのです。走る前は、このようなものが自分の中に残っていることすら忘れていました。ひょっとすると脳ではなく、足の筋肉の中に眠っていたものなのかも知れません。あるいは無意識の海の底に沈んでいたものが、走ることによって揺り動かされ、1年間かかってゆっくりと浮き上がり、意識できる世界までわきあがってきたものなのかも知れません。無邪気さ、快活さ、分かち合うこと、喜び、肯定性、有意味感といったものでしょうか。なかなか言葉で適切に表現することができません。
私が42.195Kmのその先に見たもの、感じたものはこのようなものでした。42.195Kmのその先にあるものが、人それぞれに異なるとしたら、あなたは何をみつけるのでしょうか?楽しみですね。
-完-
東京マラソン2009完走記はこれにて終了となります。ご愛読ありがとうございました。
東京マラソン完走記2009(その1) はこちらから。
東京マラソン2010、青梅マラソン2009完走記 もあります。
医局 Y・M